「象を射つ」(オーウェル)

きれい事で塗り固めるのではなく

「象を射つ」(オーウェル/高畠文夫訳)
(「百年文庫047 群」)ポプラ社

「百年文庫047 群」ポプラ社

しかし、そのとき、
わたしは振り向いて、
わたしのあとからついて来た
群衆を眺めた。
それは二千人を下らない
大群衆で、しかも、刻々に
ふくれ上がっているのだった。
それは、すっと遠くまで、
道の両側をふさいでいた。
わたしは…。

植民地時代のビルマにおいて、
苦力一人を踏み殺した
象への対応を求められた
イギリス人警察官「わたし」の
痛切な思いが描かれています。
作者は「動物農場」「一九八四年」
有名なジョージ・オーウェル
本書の巻末解説に
「エッセイとして書かれた」と
記されている通り、
私小説風ではあるのですが、
随筆もしくは評論としての一篇です。

結果として「わたし」は
象を射殺するのですが、
そこにどのような苦悶があったのか?
「動物愛護の精神に反する」
「動物の命も人間の命も等しく尊い」
といった今日的理由は、
ここには一切現れていません。
描かれているのは、
「二千人をくだらない大観衆」の視線を
背中にひしひしと感じながら、
現地人に見下されるような
行動は取れない、
支配者層としての振る舞いが
求められる状況です。

「民衆がそれを期待している以上、
 わたしは逃げるわけには
 いかないのだ」

そして「わたし」は気づくのです。
「白人が圧制者となるとき、
 彼が破壊するのは、
 自分自身の自由なのだ」

支配しているつもりが、
実は被支配者層の視線を過度に意識し、
「支配者らしく」振る舞うことを
要求されるのです。
「わたし」はその圧力に屈する形で、
「象を射つ」のです。

射殺後の、
「わたし」に対する周囲の論評が、
終末部に記されています。
肯定的な意見の根拠は、「法律論」です。
飼い主の制御できなくなった動物は
射殺処分が必要だったからです。
しかも人間一人を
殺害しているのですから、
法の要件を十分に満たしているのです。
否定的な考えのもとになっているのは
「経済学」です。
象一頭の労働的財産的価値は大きく、
たかだか苦力一人の「価値」より
はるかに大きい、それを
無駄にするとは、というものです。
それらに対する
「わたし」の考えはどうか?
「苦力が殺されたことが
 無性に嬉しかった。
 わたしのとった処置は
 法的に正しいことになり、
 射殺に踏み切った
 十分な理由になるからである」

そしてそのあとにこう続きます。
「わたしは、おろかな奴と
 見られたくないばかりに
 象を射殺した」

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「わたし」の苦悩には共感できます。
しかし立ち止まって考えてみると、
彼の苦悩の本質は何だったのかという
疑問が浮かんできます。
「わたし」が苦しい立場に
追い込まれているのは、
彼が自らを「支配者層の一員」と
自覚しているからなのです。
俯瞰した場合、実際の彼は
「支配者層の底辺部の一員」であり、
「上位の支配者から支配されている
被支配者の一人」に過ぎないのですが、
その事実に及んでいる文章は
一節もありません。

象の一件における「わたし」の思考は、
よくよく読むと終始内向きであり、
白人が有色人種を支配することの
非人間性に思いが至ることもなければ、
当然のこととして
被支配者のビルマ人・インド人たちに
思いを寄せることもないのです。
現地人たちの目の前で
醜態をさらさずに振る舞うことのできた
自分に安堵しているだけなのです。

もちろん、
象の件に差し掛かる冒頭部では、
「わたしは全面的に
 ビルマ人の味方であり、
 圧制者であるイギリス人には
 全面的に反対だった」

という記述もあり、そちらこそ
筆者オーウェルの気持ちでしょう。
その一文のあとに続く、
刑務所内に拘置された囚人たちの
惨状について、
「たえがたい罪悪感をもって
 わたしの心にのしかかってくる」

と感じているのも、
率直な思いであるはずです。
その上で、冷静に自らの心理を分析し、
イギリスの支配は暴虐であると
感じる一方で、
「ほかのどこかでは、
 この世で無上の喜びは、
 なんといっても、
 仏教の坊主のはらに
 銃剣を突き刺してやることだ、と
 考えているのだった」

と綴っているのです。

きれい事で塗り固めるのではなく、
自身の心の深奥まで掘り下っていって、
そこにある汚いものも含めて
すべて読み手の前に提示する。
自身の醜い部分を正直に受け入れる。
人間にはなかなかできることではなく、
それ故に本作品は評論における
「名作」と言われているのでしょう。

人間の深層心理、支配と被支配、
混沌の中に変遷していく社会の在り様、
そうしたものへの思考が行き着いた先に
結実したのが「動物農場」であり
「一九八四年」なのでしょう。
現代にこそ読まれるべき
オーウェルの一篇、
ぜひご賞味ください。

(2024.2.13)

〔百年文庫047 群〕
象を射つ オーウェル
日本三文オペラ 武田麟太郎
マッキントッシュ モーム

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